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書評

桂木隆夫著『公共哲学とはなんだろう 民主主義と市場の新しい見方』

勁草書房2005

『週刊読書人』2005.12.2.号、3.

 

 

数年前に東京大学出版会から刊行されたシリーズ『公共哲学』(全一五巻)のおかげで、いまや「公共哲学」という言葉は一定の市民権を得たように思われる。しかし「公共性とは何か」を哲学的に問うてみるとき、アーレントやハバーマスの真摯な議論以来、すぐれた立論が展開されたという話を聞かない。先のシリーズ『公共哲学』では、個々の研究者たちが既存の諸成果を語り直してみるという、冒険的ではあるが導入的な議論に留まっていた。公共哲学は現在、諸学の成果を並べて弁証法的に積み上げたような段階にある。

どうも研究者たちは、公共性について考え始めると、図式的なビジョンを出すという思考形式に陥りやすいようだ。本書にもその危険があって少しひやっとするが、しかし著者は他方で、まったく独自の哲学的知見を示すことに成功している。「神仏習合に基づく生活者たちの逞しき多元的文化融合の精神」という理念がそれである。日本においては、神と仏を融合する文化的寛容の精神がベースとなって、自由主義社会に相応しい公共性の作法が生み出される可能性がある。これが本書の中心的主張である。

 戦後日本の社会科学を振りかえってみると、公共「財」に関する議論はあっても、公共「精神」に関する議論は「滅私奉公」的な封建的道徳の胡散臭さのなかに埋もれてきた。現在も公共心と言えば、御しがたい愛国心をまず思い浮かべるだろう。しかし著者は「下からの公共性」があるとして、国家による制度的-精神的な包摂には与しない、民衆レベルの公共精神なるものが歴史的に生成してきたことを指摘する。例えば、古くからの歴史をもつ「お稲荷さん」や「七福神」、あるいは、戦後直後に噴出したカストリ雑誌や売春業や闇市などの民衆文化においては、猥雑な民衆の活力とともに、「平和と民主主義」の公共世界を可能にする文化的土壌が形成されてきた。さらにその過程で天皇制も大衆的天皇制へと移行してきた。確かに習合信仰そのものは公共の精神ではないが、しかし人々の多元的-猥雑的な寛容=融合の精神が触媒となって、戦後日本の平和と民主主義の実践はいっそう開かれたものになったと著者は考える。

 もともと習合宗教は、鎌倉幕府や徳川幕府においては、公的世界と密接に結びついた文化であった。それが明治期になって、政府が近代国家の正統性を作り上げる際に棄却され、代わって「国家神道」なるものが新たに立てられる。けれども著者によれば、現在社会において必要な公共精神は、明治期より前の習合宗教であり、その中にこそ、市場倫理に相応しい文化的資源がたくさん詰まっているという。例えば「無病息災」、「家内安全」、「商売繁盛」などの「ご利益(りやく)」を求める民衆信仰は、たんなる功利性の追求を超えて、生活の指針や安心を得ようとする生活者の倫理に基づく。あるいは「ご利益(りやく)」は、災いをもたらす神に対する畏怖の念を起こすものとして、それ自体として「謙虚さ」の倫理を多々含んでいる。こうした民衆信仰の倫理性に注目して、公共的世界をさらに開く可能性を探ろうというのが、本書の企てに他ならない。

 全体としてみると本書は、アーレント以降の公共性論議を教科書的に紹介する叙述で占められている。しかし最終章で展開される上記の独創的な議論は、公共哲学の新たな一歩を記すものとして独自の意義をもつであろう。

 

橋本努(北海道大学大学院経済学研究科)